昼のうちに丁寧に磨いた切子のグラスが、照明を受けて暖かく光る。
週に何度か、このグラスを使う男が気紛れにやって来る。
今日は自分に取って特別な日だから、顔だけでも見せに来てくれたら嬉しいなんて何処かで思っている。
その彼は誰にでも優しいけど、女心をまるで解していない。
ほらまた、ドアベルが鳴る。
「いつもの、ロックで頼む」
彼にとって特等席であるカウンターの隅に座ると、肘を着いて目を閉じた。
あたしは彼専用のグラスを手に取り(彼は飲み方によってグラスを使い分けているようで、初めは戸惑ったものだ)、
少し乱暴にロックアイスを放り込む。
「・・・何で笑ってるの」
「その音好きなんだ。キャシーが入れる、ちょい雑な音」
「余計な御世話だよ」
からんからんと、グラスと氷が硬く触れ合う。
続いて、タグを確認するまでもなく覚えてしまったボトルを取り出す。彼のキープボトルは、見慣れた琥珀色の液体を揺らめかせている。
そこに映った自分の顔は珍しく弱気だったけれど、見ない振りをした。
「やっぱ週末にここ来て酒飲むと、今週も働いたーって気になるな」
疲れた体にすぐアルコールが回る。ほろ酔いだと、更に口も軽くなる。でも今日はまだ飲み仲間が来ていないから、その相手はあたし。
楽しむように口に含んで香りを吸い込んで、喉を通る。
黄金の瞳がとろりと細められ、長い指でグラスを揺らす姿は、毎度の事ながらドキリとする。その眼差しが自分に向いているなら、尚更。
「偶には別のも飲んでみたら?」
「うーん、そだな」
年の割に大人の酒の嗜み方を知る彼は、馬鹿みたいな飲み方はしないし、ジュースのような甘い酒も滅多に飲まない。やたら老獪な部分があるから、時々同い年とは思い難い。
因みに彼が今使っているロックグラスは、実はペアグラスなのだと先日耳にした。
だからあたしも、苦手なブランデーを飲めるよう今少しずつ練習している。・・・いつか使わせてくれないかなって。なんとなく。
「じゃあ、アレ・・・シャンパン」
しばらく口ごもっていたかと思えば、注文したことのない酒の名を口にした。
「へぇ、珍しい」
「たまにはな。ってーことでマスターよろしく」
父さんがすぐに準備をしてくれて、指紋一つないピカピカのグラスが二つ並んだ。あたしが首を傾げたのを見て、ユウキは笑顔で手を出してグラスを勧めた。
「奢り」
「そんな、仕事中なのに・・・」
父さんを見れば、目元で笑って承諾してくれている。せっかくだから、頂いておけと。
ユウキは分かっているのだろうか。今日が何の日か。いや、そんなまさか。
「じゃあ・・・いただくよ。ありがとう」
「おう。・・・乾杯」
カチンと高らかな音を立てて、あたし達はグラスを傾けた。真珠のような泡が絶え間なく湧き立ち、ピンクゴールドの透き通った輝きが眩しい。
ユウキは相変わらずやわやわとした視線で、片肘着いてシャンパン越しにあたしを見つめる。あたしも見返すが、焦点は合っていないかもしれない。
味もろくにわからなかったのに、もう酔ってしまったのだろうか。
「キャシー」
「・・・うん?」
急にかけられた低い声に驚き、気管に入る寸でのところだった。
「シャンパンだぜ」
「ん。げほっ・・・ん?シャンパンだね」
「シャンパンは好きか」
伏し目がちに指先でグラスの足を撫ぜる。落ち着いた声音があたしの耳も撫でてゆく。
「・・・うん、まぁ・・・。どうしたの、アンタ酔ってんの?」
「なら大丈夫だよな」
流れるような動きでポケットから手を出し、あたしの手を掴んで何かを握らせた。あまりに自然な所作に、息をするのも抵抗するのも忘れていた。
触れた手が急激に熱を持ったが、すぐに掌のものを確認した。
「ユウキ・・・これ・・・」
「誕生日、おめでとさん」
先ほど飲んだシャンパンと同じ色の、否、あたしにとってはそれ以上の煌めく宝石を付けたピアスだった。喉が乾いて、声が掠れる。・・・変な汗も出てきた。
「シャンパンガーネットっての。シャンパンも好き、ガーネットも好き。・・・万事オッケーじゃね?」
眩暈がする程の色気は飛んで、少年の様に歯を見せてニカッと笑う。
あたしは頬が真っ赤なのを自覚しているから、精一杯抵抗するように相手を睨みつけた。
「シラフの時に言ってよ」
「まぁそう言うな。多少酔わねぇと無理だぜこんなの」
恥ずかしさを誤魔化すように再びシャンパンを煽ると、炭酸の泡が上って弾けて、目の前がチカチカした。
「・・・ありがとう。知ってたのかい、あたしの誕生日」
「うん、マスターから聞いてよ。いつも美味い酒貰ってっからな。ま、好きな時に着けてくれや」
手をひらひらさせ、カウンター上に組んだ腕に頭を預けた。任務を終えた事で急に眠気が襲ってきたらしい。
ああ、彼が寝てしまう。その前にこのピアスを着けて、似合うって言ってもらいたい。
きっとこのピアスを見る度、シャンパンを傾けたこの夜を思い出すに違いない。彼が来る夜は、これを身に着けていよう。・・・好きな時、って言ってたしね。
彼は誰にでも優しいけど、女心をまるで解していない。
あたしがどんな気持ちでアンタの酒を作って、シャンパンを飲んで、うたた寝したアンタを起こしてるかなんて、ちっともわかってないんだろう。
これから身に着けるシャンパンガーネットの輝きだって、きっとわかりっこない。